澄んだ目でモノを見ること
昨日の朝、HPを修正しながら今までなんとなく焦点がボケて漠然としすぎる、見た人が一目瞭然でわかる内容になっていないこと嘆く。ふとそのHPの中で私自身が運用弊害に拘った理由を紹介している内容を読み返しながらあの時の光景が蘇ってきました。
それは、テレビで防波堤を越える黒い津波、最後の希望であった防波堤を乗り越えていく波、「あっ」波が乗り越えた瞬間に逃げていて欲しいと切に望んだが。。。。。人間が想定している以上に自然の力の脅威に愕然とする。
それを思い出した瞬間に今まで何を迷っていたんだろうと、それは、今までの出席管理システムでは、入力データをチェツクする機能がないことに気がつく。
とめどない情報という波を未然に防ぐ上では、選別、選査する入力チェツクリストなど別業務のソリューションでは当然のこと。日々の確認をせず、そのままにしていればデータ量も増え、まとめて確認すること自体が難しい。
それこそが、防波堤の役割と感じる。但し、自然の力と違い、想定できるから機能する。余談ですが、報道では、防波堤があった為に津波の被害から間逃れたことは、報道されていない。
やはり、あるとないとは、違うと感じるが、ただただ視聴率を上げたいばかりに津波の大きさばかりを強調するばかりです。助かった人のある部分のみを報道する。南海トラフトの件でも過大な被害状況を想定する報道ばかり、もう少し現実的に、今の環境の中でどうすれば良いかを検証すべきではないかと感じる。
どうせ阪神淡路震災や東北大震災も想定していなかった点でと思うと憤りを少々、感じる。
さて、本題に戻ります。やはり、私自身、機能のみに溺れ、機能のみを紹介しようとしていた為に、弊害の要因のみを追求してしまった結果、わかりやすいようにと思いながら作成する度ごとにクドイ内容になったと反省します。
その当時のありのまま、澄んだ目でモノごとを見ることを忘れ、色眼鏡でモノを見てしまったように感じます。
文教の仕事をして分かることは、他の業種と違う、それは、システムの継承することがない。5年過ぎれば入れ替えをするお客様が多いことと、ハードウェアーは、いつも最新値のモノを使用しているように思う。
今まであるゆる業種のシステムを開発して点で、上記内容が目立つような気がしてならない。
システムとして販売しているパッケージ内容も帯に短し、たすきに長し、流行まがいに便乗するネーミングが多いように感じているのは自分だけかもしれません。
更地と化した実家を見て無の境地、無の中から物事を見る教訓を知った当時の新機能を発想した頃の気持ちを常に忘れることなく 澄んだ目で物事の道理を見ることを思い出した、教わった昨日の朝でした。