2011/3/21 月曜日

無知の知

Filed under: 未分類 — wakayama @ 10:45:33

ソクラテスが死刑の確定後に言った内容で、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまづき、知りもしないことに踊らされ、翻弄される。

しかし、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができる。

死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福であると弟子に「無知の知」を説いたそうです。

今の世の中、知った素振りで振舞うからどこかに不安が生じて買いだめ、窃盗、放射漏れのデマなどを流し、その真実を見極めずに踊らされ翻弄しているように見受けられます。

悪・苦痛は先入観と偏見の束縛された考え方から生じるそうです。

知らないを自覚することにより、先入観や偏見からの開放がされ、自らが知る為に情報を冷静且つ、客観的に受け止め、その内容の根拠を見極める上であらゆる方々と対話することで徳=知識(知恵)を積む、得るそうです。(孫子の兵法の知略戦と同様ですね)

前日、テレビ番組で政治家が被災地にも行かずにジャンバーを着ていることや一国の総理が現地に行くと言っては、後で取り止めをするなどのパフォーマンスのみでの風潮に国民が踊らされることなく「無知の知」を極めることが私自身、含め、重要な点ではないかと思えます。

今、マスメディアの情報のみに翻弄され、不安を抱えている方々や被災地の方々にもっとも必要なことは、明日のことは誰もが予測であり、知らないことを自覚するからからこそ一日一日を共に懸命に助け合い、共存しながら生きて行くことの方が有意義であり、「無知の知」の心境だからこそ行動自体が「善き生き」を生むそうです。(一日、一善と昔、言っていたことを思い出す。)

雨が降っているから放射能を浴びるので外に出る時は、雨に濡れないように傘をさしてくださいと報道するテレビを見ながらベランダを見たら、雨で濡れているすずめがベランダのところで休んでこっちを伺い、笑っているように見える。

人間以外の動物は、生きる為に自然の摂理に敏感に反応すると良く聞く。

今回の津波の時もカラスが一斉にいなくなったとも聞いた。偏った変な情報を聞いて翻弄する人間よりもその日、その日を懸命に生きる為の動物的カンを働かせた方がよっぽどマシではないかと、ふと思えた今朝の気持ちでした。

2011/3/20 日曜日

便乗するという行為

Filed under: 未分類 — wakayama @ 15:18:23

便乗するという意味を国語辞典で調べると「他人の乗り物に、ついでに乗せてもらうこと」、「好みに機会をとらえて利用すること」と書いてあった。

買いだめ、大儀名分の下、石油の利権争いの為の戦争介入、政府の東電への責任転換や自衛隊へのまる投げ、連立政権への模索など、今の状況を見ると便乗するという言葉が当てはまるような事柄が多いように感じる。

もう少し、今の起きていることの現実を静観し、どうあるべきかを自分自身の目で直視する必要性があると思いますが。。。。

今回の想定外という地震・津波の規模による災害にあった被災者の方々に取っては、物資援助などは緊急対応の一部であって今後、被災地、被災者への継続的な支援をどうするのかが聞きたい事で一番に重要な点ではないかと思います。

しかし、今の状況では、県単位の枠組みでの縦割りによる支援方法では、いずれ限界があると感じています。今、避難者に取って求めていることは、県の枠組みに限定することなく、国を挙げて被災地の復興への期待するビジョンを政府として示すべきことがもっとも重要と思います。

それこそが政治家としての使命であり、日本列島改造論ぐらいの想定外の大風呂敷を広げ、そのビジョンに則って官僚の方々が実現する為の策を講じることこそが国民主体の政治、まつりごととして支持されるものと思います。

国債を一時的に発行したとしても他の国々の方々は、日本の危機的状況の中で危機を回避する為に立ち上がった日本人がいたことを、評価をしています。

日本人として評価される人財が多ければ多いほど、国を挙げて復興することへ意気込みが他の国々への模範となり、市場における協調介入などやあらゆる面での協力は、得られるものと思われます。

今こそ、神は、乗り越えられない試練は与えないという言葉を信じ、ただひたすら被災地への希望ある復興の実現を目指す為のビジョンを示すことが被災者、国民に取って求めているものだと思っています。

そのビジョンを示してからの大儀名分の下、暫定的な増税することへの国民への理解を求めることこそが、良い面での便乗するという行為ではないかと思います。

2011/3/17 木曜日

親不幸者

Filed under: 未分類 — wakayama @ 8:00:43

昨日、ふるさとの友人から被災地の近々の状況について電話が入る。道路が寸断されているので船やヘリなどで援助物資などの供給がされてきていることと、寸断された道路も自衛隊の方々がお陰で車が通れるようになったが、ただ、建物の崩壊した中から行方不明の遺体がどんどん発見されてきている状況なので覚悟だけはしておいて欲しい。。。。

今は、来ても無駄、それよりも中途半端な状況で来るよりも落ちついてから来てもらった方が良いとの内容であった。

何もかも忘れ、捨てさり、今すぐにでも被災地に行きたい気持ちでいっぱいでしたが、それができない、しない自分に対して親不孝者であることへの気持ちでいっぱいでした。

2011/3/16 水曜日

命てんでっこ

Filed under: 未分類 — wakayama @ 9:27:03

昨日、テレビ朝日の震災に関する報道を見ていたら田老出身で86歳のおばあちゃんで津波被害に遭い、津波の怖さを忘れないようにと語り続けているとの内容を照会していました。

その中で津波が来たら「命てんでっこ」だよとおばあちゃんが言っていることが印象的でした。

てんで=それぞれ、めいめいという意味で、「っこ」が付くのは、東北の方言で、かわいい、愛着がある、また形容詞の複数型の意味で言います。

例えば、すがっこ=氷、わらすっこ=子供達、どじょっこなどを呼ぶ時に言いましたが、今の若い人達は、あまり言わなくなっています。

「命てんでっこ」の意味は、津波や災害があった場合は、自分の命は、それぞれ自分しだいの行動で決まるということなそうである。

その番組を見て、いまだ安否確認ができない母親に対してこれも自分が決めた運命なのかなぁーと思うと少しは、心が落ち着きました。

そのおばやちゃんが、津波を祖父と同様に今回の震災により2度、経験したことで、まさか自分までがと思ったそうです。

最後に言った言葉が「怖いところには2度と住みたくないですね」と言っていたことが印象的であった。

今、震災から人的ミスによる災害なのか放射能漏れ、昨日の富士山近郊での地震などが頻繁に発生している中で、東電への対応だけを鵜呑みにしている政府の策は、無策である点に憤りを感じています。

計画停電とは言っているが、その日、その日でグループの停電時間が流動的な内容が果たして計画停電かと疑問を感じます。

それこそ、国民一人一人が、日々の生活における計画が立たないこととどのようにしてグループ分けをしたのか訳がわかない。

何で震災にあった方々が、放射能漏れの為、疲れ切った体に鞭打つように、さらに避難して下さいとは不条理な事で、それで放射能を浴びているかを検査されている方々だけが防護マスクをしている光景を見ると被災者に取っては、どんな気持ちなんだろうかと思えました。

こんな時だからこそ一国の総理大臣としてその場へ行き、被災者に手厚いケアーをする姿勢と今後の方向性などに確固たる指導力と実行力こそが求められると判断します。

国民の一人として○○党、○○党などによる足の引っ張り合いをすることなく、目の前の危機的状況を克服する上で団結し、乗り越える策を講じて欲しいと思います。

我々国民も、事業仕分けのようなその場限りのパフォーマンスに振り回されることなく将来の日本としてどうあるべきかをじっくり考え、国会議員を選出したいと思いますが、そんな事を言っている場合ではないと買だめ、ガサネタなどに便乗する軽率な行動をする国民がいるのも現実です。

目の前の危機的状況だからこそ今、出来ることとすれば「命てんでっこ」の「っこ」の意味を良く考え、行動をすることが望まれると判断します。

2011/3/15 火曜日

震災から5日目

Filed under: 未分類 — wakayama @ 11:33:30

昨日より避難場所における避難者リストをインターネットで公開しているとのことで何度となく検索を試みるが、アクセス数が多いのか繋がらず次の朝一番に試みようと早めに就寝する。

本日、朝3時に起床し、携帯電話の履歴を眺め、昨晩10:40分頃に2度、見慣れない電話番号の留守番電話があり、電話をするのも早すぎると思いながら4時〜6時頃まで試したもののアクセスができず、半ば諦めモードの時に1本の電話が入る。

妻の母からの携帯電話の番号が、思わず手に取り、「もし、もし」と聞き取れなかったものの声が聞こえた瞬間、こみ上げる涙を我慢しながらお互いが「良かった、良かった」と言い合いながら次の言葉が浮かばない。

少しして駄目もと思い、弟の携帯電話に電話、ちょっとは反応がなかったものの今までと違うと感じた瞬間に、プルル〜ルと発信音が続く、あっ、繋がったと思った時に「もし、もし」と弟の声を聞き、「良かった、良かった」繰り返す、弟家族全員の無事を確認後、手短に済ませ、電話を切る。

しばらくして見知らぬ携帯電話番号から電話が来る、電話に出ると弟の娘からの電話であることを知る。また、「良かった、良かった」と話しをするだけであるが、感無量の気持ちでいっぱい。

被災地では、被災者自身一人一人が、周囲の被害状況もわからず、情報を得る為の通信手段が寸断された今、なんとか情報を得るために奔走しているとのこと。

食料、水、電気、医療以外で欠かせないものは、情報を得る為の電話と感じる。

今までは電話をすることで相手に繋がり、声を聞くことは、普通のこと。

しかし、今回のような事態を経験すると、電話が繋がることで相手の

声が聞こえるという普通のことが実にすばらしさことだと感じた

本日の朝でした。

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