子供に関心を示さない方々が多い世の中だから
先日、中学生同士の殺傷事件が起き、なぜと疑問を持つ方々は少ない。
それは関心がないのか、報道自体がありきたりだと思ってしまい耳は傾けるもののそれ以上の追求はしない。
今の教育者自身も自分の身辺に起きなければ無関心を装うばかりでなぜと疑問を呈したりせず、他人事のように平然としている方々が多い。だからいじめ問題の根本解決に至らない事が多過ぎると感じる。
文科相が心のケア―をと言っているが、教育者としてケアー自体をどのようにするか知らない方々へどのように対応をさせるのかが、わからない。できないと感じる。
担当だからとおしつけてしまっている傾向が強い。担当する教員も担当が変わるまでは平穏無事に済んでいて欲しいと心の中では、思っている。
なぜと疑問を感じたり、どうしてと質問もせずに前任者との引継ぎをしてしまう、早期退職者を募り、ベテランの社員を退職される社会傾向、風潮がそうした問題を起こしてしまっている気がする。
だから再三、言っているが、教員として育て輩出する大学で学生支援をしているという中身のない実態に疑問を呈していた。
教員として育てる大学は、入学した時点で履修登録という学生にレールを引かせ、そのレールという枠をはみ出せば単位が取れない、その枠以外での学生支援ができない、支援方法がわからない。
だからその枠組みの中で卒業した学生、優等生が教員になり、授業を取り仕切るから問題が生じる。いじめは昔からあったが手加減、さじ加減を知らない枠の中にハマッテ教育された優等生ではできないはずです。
もう少し、落ちこぼれの立場、枠組みを超えた観点にたって物事を見て頂ければ未然に防ぐことができるもののと思えるが今の状況化では学内だけで完結には至らない点がある。
その履修登録というレールの枠越えをしてしまう学生の気持ち、観点で、それは、おかしいいと疑問を文科省や大学へ進言する事への重要性を感じてしまう。
受けたいと思う授業は受講をし、駄目だと思う授業(教員)は、欠席をする。単純な出欠席の管理ではなく、学生の視点に立って、なぜと学生に言える、問えるコミュニケーション中心の出欠席があれば学生自身も納得するはずです。それこそが学生支援だと思います。
常に学生の視点・観点で推進していく大学があっても良いのでないかと思います。それにより学生も卒業時の思い出になり、あの時、こんな事を言われたなぁーと今後の社会生活の中で大きな励みに繋がるような気がしています。
学生を管理しようと思えば難しいと思いますが、学生自身の気持ちになれば、のびのびと受講をしたいと思う私自身の気持ちでした。