2013/8/6 火曜日

和を尊ぶことと曖昧さ

Filed under: 未分類 — wakayama @ 14:51:38

日本人が良く言われる事は、諸外国の方々よりYES、NOをはっきり言わないと非難されることが多い。

この点に関して、日常の生活の中で私自身もよくあることとしてお互いの立場を尊重し、妥協点を見いだす為に曖昧な回答になってしまうことがある。確かにモノ事をはっきり伝えることで相手が分かり易く、いい事のように思うのだが、すべてにおいて、それがいいことなだろうかと感じる。

状況々に応じ、曖昧な意見、回答が相手の立場を否定せずに済むのであればそれこそが事を丸く収める。

今まで曖昧な外交は、駄目だなど言われてきたが、日本の歴史から見れば、聖徳太子の和を尊ぶ精神が脈々と受け継がれてきているものだろうと感じる。欧米文化のようにYES/NOをはっきりする、すべて相手に責任を転換する発想では、時代背景から見ても交渉ごとがまとまらず、挙句の果てには憎まれ、物別れ、今の北朝鮮との交渉そのもののような気がする。

欧米以外の韓国、中国を見れば、内外の問題を外に向ける為にところ構わず日本を非難する風潮、集団で事を進めるが、個人々では何もできない、結局は、その非難が自分自身に返って来るあり様。

従軍慰安婦の件についても先日の河野元自民党総裁の談話の中でも軍が強制介入した記録はないことなどを明確にすべきことと言っているように、もう少し、お互いが冷静になり、歴史認識のすり合わせをすべきことと思う。

日韓のサッカーの試合で歴史を忘れた民族には未来などないと横断幕を揚げたきっかけとなったという日本の国旗を揚げた戦争を知らない若い世代の方々に一言、今があるのは日本の将来を憂い、家族、日本を守る為、戦争で犠牲となった方々のお陰だと思います。その為にも広島、長崎の原爆投下や終戦記念日に黙祷をすることを忘れないで欲しいと思う。

その場の雰囲気、盛り上がりなどに流され、国旗を道具として軽々しく揚げることだけは止めて欲しいと感じる。

用意周到に準備しておきながら相手の責任に擦り付け、伊藤博文を暗殺した人間を美化するような国柄は今までの歴史の中で幾度も侵略された経緯の中で育まれてきたものと感じる。

まず、自らの意見を制し、相手に立場に立って物事の道理を見れる日本人、和を尊び民族だからこそあえて言いたい。

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