少年法のあり方について
今朝、神戸の事件の被害者のお父さんからの加害者は、学校で教える教育ではなく、人間としての生きる道、道徳の教育がなされていなかったと
述べていた記事を見て、以前にブログに投稿した「君は、なぜ、絶望と戦えることができたのか」の事を思い出す。
なぜなのかと子供時代を思い出せば、喧嘩をしたり、学校をさぼったり、先生から叱られたりすれば、その日に家へ帰ると親、祖父から叱られるばかりではなく、叩かれたりすること、しばしであった。
叩かれながら痛いだろう、それをお前が相手にしたことだと言わながらも叩かれた。
母親は、その陰から人様のモノを盗む事や暴力を振るう事だけは間違ってもするなと良く言われた記憶がある。
それでその日は飯抜だけなら良いが、家にも入らせてくれなかったことを思い出す。それを思い出せば、親の威厳があり、
親には逆らうことはできなかった。怖かった記憶の方がある。
そうこうして育ってきた経緯からすれば親、近所の方々からの人の道を教わること、つまり道徳自体を肌身で感じてきたように思う。
川崎の事件でも親、近所の方々が、見ても見ぬふりせずに加害者へ接していれば、あんな事件は起きなかったと思う。
しかし、今の子供達の方が、なにかと少年法などについては詳しい分、犯罪などすれば少年法で守れる事をかさに振り、表面のみで反省しているように演技をし、二面づらで本当は反省などしていない、その時々で少年法をかさに振るのが現状ではないかと感じる。光市、川崎、神戸の事件も共通している。
今後、少年法だけに縛られず、その加害者である少年、一人ひとりの状況に応じたさばきが必要ではないかと思い、ブログに投稿しました。