今の世の中
連休が過ぎからようやくマスコミの過熱報道も小康状態になったが、復興への長い道のりは、これから始まったばかりだと感じる。
5年前に発生した東北大震災後の復興も未だ道半ばの状況にあります。
どこのマスメディアも震災発生の際は、船に乗り遅れまいとこぞって被災者の気持ちを踏みにじっても我さきとばかり被害の大きい所だけを優先に取材するが、
報道のみが先行し、被災者の内面からの声を反映した内容になっていない事が事実、結果、被災者を置き去りにしてしまう。
私を含め、視聴者は、テレビの影響を受けるが、一時の気持ちで後は、日が過ぎるごとに忘れ去られてしまう事と、報道した上辺のみで判断をすることしかできないものだとつくづく感じ、あまり見ないようになった。
そんなきっかけとなった事は、先日、Huluで光市の母子殺人事件を題材にした「なぜ、君は絶望と戦えたのか」のドラマを見て思った。
加害者は少年法に守られ名前も事件の全容も公表せず、被害者の実名は公表するものの被害者家族は、傍聴席で初めて事件の全容が知り得ることができる。
この事件以前は、被害者家族の方々は、傍聴席に座ることも許されず、事件の全容を知るすべもなかったことと裁判所に入廷しても遺族の方が遺影を持ち込むことは裁判官の審議に影響を受けかねないとの理由で許されていなかったことを初めて知った。
本来であれば被害者家族を守るべきことだが、マスコミに丸裸にされ、職場の方や近隣住民まで取材という大義名分の元、モラルのない中傷めいた記事など数多く世間に公表された事に一方方向の内容しか視聴者には知らせていない事実を垣間見る。
ドラマの中での最初のシーンが8年もの歳月を掛け、司法と戦い続ける言動力となりましたと被害者の夫が言っている。
被害者の夫が何も知らず会社からいつも通り家に帰宅、ただいまを言っても妻の返事がなく、玄関にもいない、おかしいなぁーと思い、妻を探す、居間で妻の変わり果てた遺体を見て、放心状態のまま、ただただ110番するだけで、子供も発見できなかったことや妻を抱きかかえてやれなかった自分の不甲斐なさを悔い、妻に申し訳なかった思いだけが。。。。
警察からは、なぜ、110番でなく先に119番ではと、死んでいる事を初めから知っていたから、そうなんだろうと犯罪者扱いの質問もされたことなど
時が経過してもあの場所に時が止まったように離れられない自分がいますと言った言葉がすべてを表しているように感じました。
妻を抱きかかえてやれなかった思いは、私自身も同様な経験をしたことがあり、私の心境としては、現実を受け止める事ができない、夢であって欲しいと思う気持ちが抱きかかえることができなかった理由でした。それを思うと同様の心境ではなかったのではと思います。
加害者には死をもって報いて欲しい、それが私自身、妻を抱きかかえることができなかった事に対して唯一の妻への報いになると思うと司法との戦い続けた8年間の内容でした。
8年間もの中で戦い続けることができたのは、彼自身、心無い中傷にも自分の立ち位置(時が止まったあの場所の気持ち)をぶれることなく持ち続けられたことと被害者の会の方々や周囲の協力があったからこそと感じました。
もし、自分がその立場、夫としてマスコミや司法に対して一人矢面に立たされ同様のことができたのかは疑問、殆どは、司法という壁があれば、それは仕方がない事と感じ、妥協するしかないと諦めるのではないかと思います。
なぜ、彼は8年もの長い歳月の中で周囲おの状況にぶれることなく自分の立ち位置を持ち続けることができたのかが疑問となりました。
その疑問となった点について今朝、BSE、商品偽造を話題にした「震える牛」の別ドラマを見たお蔭でその疑問がなんとなくですが分かったような気がしました。
マスコミの取材や周囲の状況にぶれることなく一貫とした自分自身の立ち位置からの判断、行動ができるか、できないかで大きく人生が変わることを知り得たような気がしました。
「震える牛」のドラマは、BSEの発生後、マスコミの報道の影響を恐れ、偽装工作する人、公表しなければと思う人、それぞれの葛藤が交差し、偽装工作した人間が追い込まれ、偽装の偽装でさらに事態は悪化し、翻弄され、ますます身動きが取れず、最後には、すべてを失い、崩壊するストーリでした。
日々の日常の中でも自分の思っている事も言えず、相手の話に流されるケースの人が多いような気がします。いい意味では協調性がある、悪い意味では、主体性がない、事なかれで長いものに巻かれろ主義が悪い事だと思いながらも周囲に影響され、赤信号、皆で渡れば怖くないと同様に偽装工作までしてしまう。
ドラマの最後に自分で自分の首を絞めていることを気づき、言った言葉に「経済だけが一人歩きし、それについて行くこと、会社を守る事がいつしか自分の立ち位置と勘違いし、いつのまにか商売を始めた頃の身近なお客様の顔が、求めている事が見える一番に重要な原点すら忘れていたような気がしてならない。」とつぶやいて終わるシーンが私自身の疑問に思っていた点についての解決の糸口のように感じました。
二つのドラマの中で共通する事、自分の立ち位置における思考の違いによる言動、行動が招いた結果が命運を分けたように思います。
また、マスコミの報道、言論の自由のみを主張し、その事実関係を自分の視点、観点で把握もせず、垂れ流しのような加熱した報道がその後の人生自体までを狂わす原因にもなりかねないと判断すればバレなければ良いと偽装を繰り返す一因でもあるような気がします。
ここで言いたいのは、マスコミ報道の内容次第で被害者から見た場合、加害者にもなり得ることを知って欲しいと思います。
今の世の中、巷では家族会議の為に会議費名目で公費を使う方や、会社を守る為だけの偽装、詭弁だけが目立ち、嘘がバレれば、ごめなさいと言えば済むと思う企業、企業と言えども人の集まり、長いものに巻かれろ主義の企業倫理=会社を守るのみの間違った立ち位置に終始、だからお客様との接点が遠のいているように感じます。
「なぜ、君は絶望と戦えたのか」のドラマの中のワンシーンで「鉄は時間が経過する共にさびる、記憶も同様、しかし、思いは心に持ち続けることでさびる事がない。」と語った内容がありました。まさしく、人それぞれが今までに培った人生の中で経験で自分としてゆるぎない思い、不変のモノを今だからこそしっかり持ち続けることが重要だと思います。
私自身、社員の方々へ「現場ありき、データありきでの言動こそが一番に重要であり、真実である」と常に言い続けてきました。今までの経験から仕様要件を詰めても今、運用しているそこにあるデータこそが嘘をつかない、まぎれもない運用をされている真実だと判断をしています。
これからも自分の信念を曲げることなく、周囲からは煙たい存在であっても自分を必要とされる場所があり続ける限り歯に衣を着せず自信ある言動をしたい思っています。
最後になりますが、今までは、休日も仕事ばかりで過ごしていましたが、たまには気分転換の為、ドラマを見る事も良いものだと感じました。