無関心は最大の罪と言うが
無関心が無責任となり、無感動から無気力を生むと言うが、だからと言ってインターネット上の世界での批判やら中傷の嵐で炎上するなどを聞けば顔が見えないからと言って何でもありのような感じも迷惑な事。
相手を思っての発言だったら良いが、所詮、血が通わぬ世界でやっているからそんな事になるのではと思う。
ただ、批判、中傷した方々には、どっかの知事みたいにブーメラン現象のように自分へ戻ってくることを知るべきことだと思います。
昨日の裁判の内容でも反省の色が見えない、また、再犯するのではと本人の気持ちを逆無でするような無責任な発言を聞く。冒頭で無関心が無責任となると言っているが私から言えば、当事者の気持ちを思いやれず、他人事のように思っているから言えるように感じる。
わだち(轍)という言葉あります。意味は、車が通った、ぬかるみなどへの車輪の跡とあります。良く使う例として同じてつ(轍=失敗)を踏むなどに使われます。
人それぞれの轍があるからこそ他人が批評しても意味がないものと感じます。それよりも無関心ではなく、静観(物事を静かに見守る、物事の不変な本質を見抜く)することも必要ではないかと思います。
なぜならば、人とそれぞれの自分としての立ち位置の違い、轍の違いによる思考からの言動、行動から人生は、決まるものだと感じます。
ただ、私的流用をしたあの方は、過去からの轍、生き様から見れば政治家ではなく、元々、立ち位置が権威、権限を流用した政治屋に過ぎないから変わらないと思います。あんな公私混同する方が。。。。まるでゲゲゲの鬼太郎に出てくるネズミ男ように感じます。